ネパール大地震から3日目の状況

 

進まぬ復旧工事・死者2万人か?

私のエッセイ 鈴木 ユミ

2015年04月25日午前11時55分、悲劇は突然現れた。ネパールは未曾有の大地震に見舞われた。マグニチュード7.8と聞いた。歴史的建造物、そして、そのとき、その場所に遭遇した人々は、ほとんど助からず、古い家も、そこここに壊れ、その下敷きになった人は未だ、救出されていない。昨日には、各国の救援隊が到着したようであるが、発生から3日間、救出の手は回らず、助かった人はあまりいない。人々は建物の揺れと崩壊を恐れてまだ野外キャンプをしている。時折、余震に驚き、ただただ怖がっている。地震国日本で生まれ、大地震の経験もしている私は、さして驚かなかったが、人々の姿を見ていると、日頃の訓練がいかに大切かよくわかる。まずは火の元を消す。扉を開ける。揺れが収まったら外へ出るという基本がない。しかし、今回建物の造り方が耐震構造ではない、この地域の問題を考えると、そうも言ってはいられないかもしれない。この家は、クラックひとつなかった。造り方、構造がよかったのであろう。外に出る必要はなかった。ずっと家に居る私を、ネパール人の周りの人々は不思議そうに見ていた。日本人は地震の経験があるから、安全を確保することを知っていると立証されたようだ。

まだ家の周りを見ただけで外に出ていないが、聞くところによると、かなりの家がペチャンコに崩壊し、その下にまだ、助けられていない人々がいるという。昨日の発表で、死者5千人を超えた。地方には一瞬にして崩壊した村がいくつあるのかはかりしれない。そして、震源地のダーディンに、当家のディディが帰っていて、地震のあった当日戻ってくるはずだったが、昨日まで連絡がなく、今朝本人がやってきた。よく生きていてくれたと喜んだが、村は全滅で、家も畑も動物もすべて失ったしまった。地震のときは外にいたそうで、両親、兄弟甥、姪ともかろうじて助かり、生きていればなんとでもなると励ました。彼女はカトマンズの夫が、バイクで迎えに行って連れて帰ってきた。カトマンズの家もクラックがはいり、安全ではないといっていた。これからのことも心配である。水、ガスもまわりに売っていないといっていた。大使館に避難した人々も、それぞれに行き先を定めて出て行った。この度の犠牲者は、2万をこすかもしれないといわれている。人だけではなく、貴重な文化遺産も80%以上は崩壊した。

復旧に向かってはしったとしても、元にもどるのは、どのくらいかかるのだろうか。今から27年前、私はインドネシアのジョクジャカルタに行った。ここは古い都である。やはりかつて、地震で壊滅状態になった。ボロブドールは、ほぼ修復されていたが、近くのプラバナン遺跡は4つのストーパのうち、2本だけが完成されていた。残り2本はいつごろ修復完成されるか聞いてみたら、100年後だと言っていた。この度の世界遺産の修復は可能だろうか。可能だとしてどのくらいかかるのだろうか?おそらく100年はかかるだろう。そして街が元のようになるには、すくなくとも10年はかかるだろう。その歳月は、私は存在しないだろうが、大切な歴史遺物を残す努力を続けてほしいと願っている。震災で失った命は戻らない。同じ人間は二人といない。その悲しみを乗り越えて人は強くなっていく。人生には限りがある。いつどこで終わりを迎えるかは、神のみぞ知る。私達が今を生かされていることを感謝し、一日一日を大切に、意味あるものにしていかなくては、亡くなった方々に、本当に申し訳ないと思う。